「人生60周年=還暦=」を迎え
【2017.01.05】
あけましておめでとうございます。希望に満ちた新春をお迎えになられたこととお慶び申し上げます。
昨年は、連合愛知の諸活動に対し、構成組織・地域協議会さらには54万人の組合員の皆様からいただきましたご支援・ご協力に心から感謝いたします。
今年も連合愛知は、「働くことを軸とする安心社会」を目指して、構成組織への深まりと地域社会への広がりを果たすための諸活動に取組んでいきます。引き続きの連合運動への参画をお願いいたします。
さて、私事ですが、昨年の12月に満60歳となり「還暦」を迎えました。
一年に必ず一度は来る誕生日ですが、今年はちょっと気持ちが違いました。
干支は十干十二支であり(私の干支は丙申)60年で一巡ですので、還暦を新たなスタートと思い、新たな気持ちで活動に取組んで行きたいと思いました。(気持ちは若くても体はそれなりになってきていきます。=(笑)=)
そんな誕生日に孔子の教えを想い出しました。それは論語の一説で皆さんもよくご存じの「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩をこえず。」という教えです。
私は、その年代では何をしていたかを考えてみました。
30歳になるときに子供が生まれ親としての自覚が芽生えました。
40歳の時は、組合役員を辞めようと思いましたが、辞めずに組合役員を続けました。
50歳では、単組の責任者となり自分の責任の重さを痛感し労働運動に取組ました。
そして60歳、孔子は「六十にして耳順う」(修行がますます進み、聞くところ理屈に合えば、何の障害もなく理解し、他人の言葉を自然に受け入れることができるようになった)と教えています。そして、「七十歳にして、心の欲する所に従えども矩をこえず」とは、自分の思うことすべてが、真理にかない、思うがままの行いをとっても自然の法則から外れることのない、悟りの究極を体得したことを意味しているそうです。
私は、孔子ように精神的な進歩はありませんが、たまたまその年代に人生のターニングポイントがあったような気がします。
さて、60歳「六十にして耳順う」ことができるかはこれからです。年を重ねると意固地になる傾向があるようですが、これから努力し「人の話をよく聞き、その言葉を受け入れながら判断していきたい」と思っています。
ただし、目指すべき国家像や政策の一致がない野党(共産党)共闘はあり得ません。